shilog

ログです。

9年使った車について考えていた。
ある道具を評価するときの物差しとして「物よりそれを使って何をしたか」が重要とおもっていて。機械などは本来の目的に適った使用法であればそれがベストの使用法だと思いました。
実際何につかったか、と言えば純粋に日常の足として使い倒した。レジャーは時折。でありますが走った。たまには洗車もした。今の俺をこのクルマはどう思っているだろうか。

さてそこから考えた事を羅列。
道具(この場合車)の望みとはなにか。望みがわかる方法。それはうけいれられるものか。許容できれば継続。道具の高性能化は進む。それが人の形を成すのはそう遠い未来ではない。
別の視点で考えれば人は道具を使役し自らの力ではやりきれない目的を果たす。そのための一つの方法としての肉体改造。集中力、思考力の強化あるいは筋力、膂力の純粋な拡大。

そしてそれは多くの燃焼と膨張、収縮と圧縮、開放と果てしない分散を生んだ。

では人はそのすべての変化とそれに伴うトラブルに責任を負わなければ鳴らなかったんだろう。原罪として。


劣等種。自らが作り出した高等存在により道具として使役される屈辱の世界の中で彼らは横たわる犬と豚のように?

話がちらかってきたけど。
以前設定だけ発表されてた頃にこんな感じのものを望んでいたりしてたなあ。
「俺、イーサンウェーバー!」で始まるあの物語に。公平に見てもっとも劣等な種は自分自身か。